
- 「読む10%、聞く20%」の保持率序列はどの実証研究にも由来せず、出典とされるNTL自身が元データの不在を認めた
- 系譜調査は原型を1850年代まで遡り、記憶の実験研究の開始(1885年)より古い俗説だと結論づけた
- 反証論文を引用した論文の76%がなお通説を肯定。きりのよい10刻みの「それらしさ」が生存の理由とされる
研修資料やプレゼンの定番に、ピラミッド型の図がある。 講義で聞いたことは5%、読んだことは10%しか記憶に残らないが、自ら実践すれば75%、他人に教えれば90%が定着する。 だから座学ではなくアクティブラーニングを、という筋書きだ。
この数字には出典がない。
誇張ではなく、文字通りの意味で、ない。 2012年、ノルウェーの哲学者Kåre Letrudが出典とされてきた米国の研修機関NTL Instituteに問い合わせの経緯を検証したところ、NTL自身が「数字を裏付ける元の研究は、もはや手元になく、見つけることもできない」と認めていた。 2018年にはLetrudとSigbjørn Hernesがデジタルアーカイブを掘り、この種の序列の原型が160年以上前から流通していたことを突き止めた。 記憶の実験研究そのものが始まる前から、である。
誰も実験していない数字が、なぜ教科書と研修資料を160年生き延びたのか。 この記事では、複数の系譜調査と反証研究を突き合わせて、その顛末を追う。
ラーニングピラミッドと呼ばれる図
まず対象を特定しておく。ラーニングピラミッド(learning pyramid)は、学習方法ごとに記憶への定着率が決まっているとする図解の総称である。 最も広く流通しているのは、NTL Institute(米国の組織開発・研修の老舗機関、1947年設立)に帰属される版で、講義5%、読書10%、視聴覚20%、実演30%、集団討議50%、自ら実践75%、他人に教える90%という序列を示す。
もう一つの有名版は「読んだことの10%、聞いたことの20%、見たことの30%、見て聞いたことの50%、話したことの70%、話しながら行ったことの90%を人は覚えている」という文章形式で、こちらは経験の抽象度順に学習体験を並べた円錐図と組み合わせて描かれることが多い。
数字の細部は資料ごとに食い違う。 70%が「話す」なのか「討議する」なのか、90%が「教える」なのか「実践する」なのか、版によってばらばらである。 教育工学者のDeepak Subramony、Michael Molenda、Anthony Betrus、Will Thalheimerの4人が2014年に学術誌Educational Technologyで組んだ検証特集は、この保持率チャートが「何十通りもの順列で報告されてきた」ことを指摘している。 同じ実験に由来するなら、数字がここまで揺れることはないはずだ。
この時点で疑わしい。 ただ、疑わしさと反証は別物である。 出典を実際に掘った人がいる。
出典を尋ねたら「元の研究は見つからない」と返ってきた
Letrudが2012年に学術誌Education(133巻1号、117-124頁)に発表した論文「A rebuttal of NTL Institute's learning pyramid」は、この図の出典探しを正面の主題にした数少ない査読論文の一つだ。
照会に対するNTL Instituteの回答として広く知られているのは、次の内容である。 ピラミッドは1960年代初頭、メイン州ベセルのキャンパスで開発・使用された。 そして「正確だと信じているが、数字を裏付ける元の研究はもはや手元になく、見つけることもできない」。 多くの人が元の研究を探したが、誰も見つけられなかった、とも付け加えられている。
つまり、出典として名指しされてきた機関自身が、根拠の不在を認めている。 Letrudはこの論文で、歴史的な検討と方法論的な検討の両面からピラミッドに実証的裏付けがないことを論じ、NTLに対してモデルの撤回を求めた。
Letrudの批判で見落とされがちなのは、方法論の側である。 仮に今から実験でこの図を検証しようとしても、大きな方法的問題に突き当たる、と彼は論じた。 この論点は後で戻ってくるので、先に系譜の話を進める。
系譜は記憶研究の誕生より古かった
元データが失われたのなら、失われる前には存在したのだろうか。 LetrudとHernesが2018年にCogent Education誌(5巻1号)に発表した論文「Excavating the origins of the learning pyramid myths」は、この問いにデジタルアーカイブの網羅的な検索で答えようとした系譜調査である。
結論から言えば、探すべき「元データ」はそもそも存在しそうにない。 二人は、学習方法と記憶の定着を序列化するこの種の言説の原型が、160年以上前の教育論の中にすでに現れていたことを確認した。 1850年代の文献に原型があり、1859年には米アラバマ州の教育雑誌に載った綴り方指導の記事が、この種の序列を「よく知られた事実」として引き合いに出していたという。
この年代が持つ意味は大きい。 人間の記憶の定着を実験で測る研究は、ドイツの心理学者ヘルマン・エビングハウスが1885年に発表した忘却の実験(無意味な音節を記憶し、時間経過による忘却を自ら測定した研究)を嚆矢とするのが通説である。 つまり保持率の序列は、記憶を測定する学問が生まれる前から「事実」として流通していた。 実験に由来することが、時系列の上でありえない。
LetrudとHernesはさらに、現代に流通する版が認知心理学の発展を取り込んでこなかったことも指摘している。 ピラミッドが前提とする記憶観(入力の感覚様式だけで定着率が決まるという見方)は、記憶研究の標準的な描像から大きく外れている、というのが二人の評価である。
数字付き有名版の源流は1967年の業界誌
では、あの具体的な数字はどこから来たのか。
LetrudとHernesの2018年の調査が数字付きの有名版の源流として特定したのは、1967年に視聴覚教材の業界誌Film and Audio-Visual Communicationに載ったD. G. Treichlerの記事である。 Treichlerは石油会社Mobil Oilの社員で、記事は「人は読んだことの10%、聞いたことの20%を覚えている」という例の数字を紹介した。 そして、根拠となる研究を一つも引用しなかった。 実験報告ではなく、出典のない断言だった。
Treichler以前にも手がかりはある。 前出のMolendaは、よく似た数字が1940年代にテキサス大学のPaul John Phillipsという人物の周辺に現れることを突き止めた。 Phillipsは石油業界向けの研修教材を開発し、第二次大戦中は米陸軍の兵器学校で視覚教材の指導に携わった人物で、数字はメリーランド州アバディーンの同校で行われた研究に裏付けられていると主張していたという。 その研究の実体は、やはり確認されていない。
ここに、もう一人の登場人物が巻き込まれる。 教育学者エドガー・デールが1946年の著書で提示した経験の円錐(Cone of Experience)は、学習体験を「直接体験」から「言語シンボル」まで抽象度の順に並べた図で、ラーニングピラミッドの出典としてしばしば名指しされる。 しかし原典の円錐に、保持率の数字は載っていない。 デール自身が、この図を文字通りに受け取らないよう読者に注意までしていた。 体験の抽象度を整理した記述的な見取り図であって、どの方法が優れているかを示す処方箋ではない、というのが本人の位置づけである。
それでも後年、誰かがTreichler系の数字をデールの円錐に接ぎ木した。 Subramonyらの2014年の特集は、この合成図を「神話的保持率チャートによるデールの円錐の汚染」と呼び、存在しない研究への引用の連鎖がこうして生まれたと分析している。 権威ある図に出所不明の数字が載り、その合成図が「デール(1946)」という実在の文献を出典として引用され続けた。 引用をたどると本物の本に行き着くが、その本に数字はない。 神話が学術の体裁を獲得する典型的な経路である。
実験としてありえない理由
系譜をたどらなくても、数字そのものに無理がある。 反証研究が挙げる論点は大きく三つある。
第一に、きりが良すぎる。 Subramonyらは、保持率がすべて5か10の倍数に丸まっていることを挙げ、人間のデータのばらつきは実測でこのような丸い数字を許さない、と指摘した。 7つの測定値が全部10刻みに揃う実験結果は、実験結果ではない。
第二に、「何の90%か」が定義できない。 Thalheimerが強調するのは、学習方法ごとの定着率を比較するには全条件を同一のテストで測る必要があるが、テストの形式自体が何を「覚えている」とみなすかを決めてしまう、という測定上の難点である。 読んで学んだ内容と、実践して学んだ内容は、そもそも同じ試験で測れない。 Letrudが2012年の論文で「実証的なテストを試みても大きな方法的問題に直面する」と書いたのは、この意味である。 ピラミッドは反証されたのではなく、検証可能な主張の体裁を最初から満たしていない。
第三に、実際の研究群は序列を支持しない。 James LalleyとRobert Millerが2007年にEducation誌(128巻1号、64-79頁)に発表したレビューは、ピラミッドを支持する信頼できる研究が見つからない一方で、図に挙がる各方法(講義、読書、視聴覚、実演、討議、実践、教えること)にはそれぞれ定着を生む研究上の裏付けがあり、どれかが一貫して他より優れているとは言えない、と結論づけた。 どの方法も文脈次第で有効であり、方法を選ぶ教師の判断こそが決定的だ、というのが二人の締めくくりである。
序列に部分的な真実はあるか
こう並べると、ピラミッドの逆張りで「講義や読書で十分」と結論したくなるかもしれない。 それも違う。 「能動的な関与が受動的な視聴より記憶に残りやすい場面がある」という緩い傾向自体は、現代の記憶研究に裏付けがある。
代表例がテスト効果(学んだ内容を思い出す練習が、読み返しよりも長期的な記憶を強めるという現象)である。 Henry RoedigerとJeffrey Karpickeが2006年にPsychological Science誌(17巻3号)に発表した実験では、文章を学習した後に想起テストを受けた群と、同じ時間だけ再読した群を比較した。 5分後の試験では再読した群が勝ったが、2日後と1週間後の試験では想起練習をした群が明確に上回った。
「教えると覚える」にも対応する知見がある。 John Nestojkoらが2014年にMemory & Cognition誌(42巻7号、1038-1048頁)に発表した実験では、「後で他の学生に教えてもらう」と告げられて文章を読んだ参加者は、「後でテストを受ける」と告げられた参加者より再生成績が良く、要点の整理も優れていた。 実際には誰も教えていない。 教えるつもりで読むだけで効果が出た。 FiorellaとMayerによる2013年の実験も、教える活動と学習の関係で同方向の結果を報告している。
ではピラミッドは「数字が雑なだけで方向は正しい」のか。 そう譲るわけにもいかない。 テスト効果の研究が示すのは、遅延時間という条件次第で優劣が逆転する相対的な差であって、「読書10%、実践75%」のような方法固有の定着率ではない。 再読が勝つ条件(直後のテスト)も実験で確認されている以上、方法と定着率を一対一で固定するピラミッドの枠組み自体が、実証研究の描く世界と噛み合わない。 現代の記憶研究が支持するのは「思い出す練習と精緻化が効く」という処理の話であり、「読む、聞く、見るという入力経路で残存率が決まる」という配管の話ではない。
反証されてもなお引用され続ける
ここまでの反証は2000年代から積み上がってきた。 それでもピラミッドは死んでいない。 LetrudとHernesは2016年、Journal of Curriculum Studies誌(48巻3号、291-302頁)の探索的調査で、この種の保持率神話が学術誌や分野別の事典類に広く流通し、相当の権威を獲得していることを確認した。 教員向けの俗流資料だけでなく、査読を通った文献の中で生きているのである。
さらに驚く数字がある。 二人が2019年にPLOS ONE誌に発表した研究は、ラーニングピラミッド系の通説を批判した3本の論文(前述のLetrud 2012を含む)を引用している学術文献613件を集め、引用の文脈を分類した。 468件は、批判論文を引用しながら通説を肯定していた。 中立が105件、批判に同調したのは40件にとどまった。 反証を参照文献に挙げつつ、その反証対象を事実として紹介する論文が4分の3を占めたことになる。 二人はこの構図を肯定的引用バイアス(affirmative citation bias)と名づけた。
なぜこうなるのか。 仮説として研究者らが挙げるのは、この数字の「使い勝手」である。 講義偏重への批判は教育改革の文脈で常に需要があり、ピラミッドはその主張に定量的な見た目を与えてくれる。 直感にも合う。 座学より実践の方が身につく実感は誰にでもあり、10刻みの数字はその実感に科学の衣を着せる。 論文の著者が反証論文を検索で見つけ、中身を読まずに「ラーニングピラミッド関連の文献」として引用すれば、反証はかえって神話の参考文献リストを豊かにする。 出典を確認しない引用の連鎖こそが、この数字を160年運んできた乗り物だった。
なお、この構図には既視感があるかもしれない。 「人は見た目が9割」の根拠として引かれるメラビアンの法則も、元の実験の限定条件が剥がれ落ちて数字だけが独り歩きした例である。 一つの数字の出典を掘ると通説が崩れる、という型は、教育や研修の世界に一つや二つではない。
数字を捨てた後に残るもの
実務への引き取り方を整理する。
研修や授業の設計を「読書は10%しか残らないから」という理由で正当化するのは、やめた方がいい。 根拠として引けば、出典を確認しない側に自分が立つことになる。 一方で、想起練習やテスト効果、教える前提での学習といった、条件つきで効果が確認された道具は使える。 「どの方法か」ではなく「思い出す機会をどう組み込むか」で設計する方が、実証研究の地面に足がつく。
そしてもう一つ。 この通説をめぐる論争全体が、暗黙の前提を共有していることに気づく。 聞いたことの何%が頭に残るかを、そもそも競う必要があるのか。
仕事の記録に限れば、答えは出ている。 会議の決定事項や打ち合わせの約束は、2割残っても8割残っても足りない。 100%必要な情報は、記憶の定着率を上げる対象ではなく、外部の記録に出す対象である。 AIボイスメモのメモリスは、この「頭に残そうとせず記録に出す」ための道具で、スマホで録音しておけば、録音後にAIが文字起こしと要約を数分で仕上げる(エンジンの詳細は文字起こしエンジンをGPT Transcribeに更新した際の記事にまとめてある)。 聞いたことの保持率を気にする代わりに、聞いたことを全部残してから考える、という選択肢である。
160年生き延びた数字の教訓は、記憶術ではなく引用の作法にある。 きりのよい数字と、それらしい図と、権威ある機関名。 三つが揃った主張を見かけたら、出典を一段だけ掘ってみるとよい。 Letrudたちがやったのは、突き詰めればそれだけのことだった。




