
- 教師の9割超が信じる学習スタイル説は、2008年の網羅的検証で支持研究がほぼ皆無と判定された
- 聴覚型にオーディオブック、視覚型に電子書籍を割り当てた直接実験でも適合効果はゼロだった
- タイプ診断より、想起練習や記録の外部化などタイプを問わず効く方法に時間を使う方がよい
「自分は耳で覚えるタイプだから、参考書を読むより講義の録音を聞き直すほうがいい」。「あの人は目で見ないと頭に入らない視覚型だ」。こうした言い方は、勉強法の話題ではほとんど自己紹介の定番になっている。学校の先生も信じている。英国とオランダの小中学校教員242人を対象にしたDekkerら(2012年、Frontiers in Psychology誌)の調査では、9割を超える教員が「本人の好むスタイルで情報を与えると学習効果が上がる」という説に同意した。
ところが、この通説には証拠がない。2008年、4人の著名な心理学者が過去の研究を総ざらいした結果、適切な実験でこの説を支持した研究はほぼ皆無だと判定された。その後、聴覚型の人にオーディオブックを、視覚型の人に電子書籍を割り当てるという、まさに正面からの実験も行われた。適合の効果はゼロだった。
教材会社の診断テスト、企業研修、教員養成課程。学習スタイル理論はひとつの産業を支えている。その理論が、一度も実証されないまま、なぜここまで広まれたのか。
「タイプに合わせれば伸びる」という約束
まず言葉を整理しておきたい。学習スタイル理論とは、「人にはそれぞれ生まれ持った情報の受け取り方のタイプがあり、そのタイプに合った形式で教わると学習効果が上がる」という考え方の総称である。最も有名なのは、視覚(Visual)・聴覚(Auditory)・読み書き(Read/write)・体感覚(Kinesthetic)の頭文字をとった「VARK」の分類で、ニュージーランドの教育者ニール・フレミングが1992年に提唱した。米国では1970年代からダンとダンの学習スタイルモデルが学校現場に広まっていた。
この考え方の魅力は分かりやすい。生徒はひとりひとり違う。だから教え方もひとりひとり変えるべきだ。ここまでは、誰も反対しない教育の理想である。問題は次の一歩、つまり「違い」の中身を視覚型・聴覚型といったタイプ分けで捉え、タイプと教材の形式を一致させれば成績が上がる、と約束したことだった。後に検証の標的になるのは、まさにこの適合の約束である。研究者はこれを「メッシング仮説(かみ合わせ仮説)」と呼ぶ。
もっともらしい話ではある。聞くより読むほうが頭に入る、という実感は多くの人にあるはずだ。その実感が本物なら、タイプに合わせた教育も効くはずだろう。そう思いたくなる。だが実感と効果のあいだには、実験で埋めるべき距離があった。
71の理論、独立検証はゼロ。2004年の英国レビュー
最初に大規模な棚卸しを行ったのは英国だった。2004年、コフィールドら4人の研究者が、英国のLearning and Skills Research Centre(学習・技能研究センター)の委託で学習スタイル研究の系統的レビュー、つまり存在する研究を網羅的に集めて質を評価する調査を発表した。
集めてみて最初に分かったのは、理論の多さである。「学習スタイル」を名乗る理論は71種類も存在した。視覚・聴覚の分類だけではない。熟考型と活動型、場依存型と場独立型、朝型と夜型まで、分類軸そのものが乱立していた。71種類の「タイプ分け」が併存しているという事実は、それ自体がこの分野の科学的な成熟度を物語る。コフィールドらは影響力の大きい13モデルを選んで精査したが、提唱者以外の独立した研究によって妥当性が確認されたモデルはひとつもなかった。診断に使われる質問紙の多くは、同じ人が受け直すと違うタイプ判定が出る、つまり測定としての信頼性すら怪しかった。
ただし、このレビューが示したのは「診断の道具が粗い」ことまでで、「タイプに合わせても効果がない」ことの直接の証明ではない。道具が粗くても、理論の核が正しい可能性は残る。その核心部分に踏み込んだのが、4年後の総検証だった。
2008年、検証のハードルが明文化された
2008年、心理学者のパシュラー、マクダニエル、ローラー、ビョークの4人が、Psychological Science in the Public Interest誌(米国の心理科学会が、社会的に重要なテーマについて第一線の研究者に証拠の総括を依頼する学術誌)に「Learning Styles: Concepts and Evidence」と題した論文を発表した。学習スタイル論争を語るとき、必ず参照される一本である。
この論文の最大の貢献は、判定より先に、合格ラインを明文化したことだった。メッシング仮説を証明したことになる実験とは何か。4人の答えはこうだ。まず生徒を学習スタイルで分類する。次に、スタイルとは無関係にランダムに教え方を割り当てる。そして全員に同じテストを課す。このとき、聴覚型は音声で教わったときに、視覚型は文字や図で教わったときに、それぞれもう一方の教え方より良い成績を取る、というたすき掛けの結果(専門的には「交差交互作用」と呼ぶ)が出て初めて、仮説は支持されたことになる。全員が音声条件で成績が良いなら、それは教材の出来の話であって、タイプの話ではないからだ。
このものさしを当てて過去の研究を総ざらいした結果が、冒頭で触れた判定である。この設計を満たした研究は文献の山の中にほぼ存在せず、数少ない適切な設計の研究は、むしろ仮説を否定する結果を出していた。何十年も語られてきた理論の土台に、合格答案が一枚もなかった。
否定的な結果の代表として4人が挙げたのが、マッサとメイヤーが2006年にLearning and Individual Differences誌で発表した一連の実験である。この研究は「言語型・視覚型という好みの違い自体は実在する」ことを確認している。質問紙で測った好みは、学習中の行動ともある程度対応していた。それでも、電子教材の説明を文章中心にするか図解中心にするかを変えたとき、好みに合わせた群が合わせない群より良く学べるという証拠は出なかった。タイプは実在する、しかし合わせても伸びない。この区別が、以降の議論の軸になる。
オーディオブック対電子書籍。正面からの実験
パシュラーらの論文は、裏を返せば実験の設計図でもあった。誰かがその通りに実験すればよい。実際にそれを行ったのが、ロゴウスキー、カルフーン、タラールの3人である。
2015年にJournal of Educational Psychology誌に掲載された実験では、大卒の成人を対象に、まず標準化された質問紙で聴覚型・視覚型の学習スタイルを判定し、あわせて聞く力・読む力の適性そのものも測定した。その上で参加者をランダムに分け、同じ内容のノンフィクションをオーディオブックで聞く群と電子書籍で読む群に割り当て、直後と2週間後に理解度テストを行った。パシュラーらが要求した設計を教材選びの場面で満たした、初めての実験とされる。
結果は明快だった。学習スタイルと教材形式の組み合わせは、直後のテストでも2週間後のテストでも、成績と統計的に意味のある関係を示さなかった。聴覚型がオーディオブックで有利になることも、視覚型が電子書籍で有利になることもなかった。成績を予測したのは、スタイルではなく適性、つまりもともとの言語理解力だけだった。
一度の実験なら偶然かもしれない。そう考える余地はある。しかし同じチームは2020年、Frontiers in Psychology誌で同じ設計を小学5年生に適用した。学齢期の子どもでこの設計を満たした実験は、これが初とされる。結果は大人と同じで、適合効果はなし。興味深いことに、視覚型と判定された子は聞き取りのテストでも読みのテストでも成績が良かった。タイプ診断が拾っていたのは情報の受け取り方の違いではなく、学力差だった可能性を示す結果である。
教室の外の行動を見た研究もある。フスマンとオローリンは、米国の解剖学講義を受講する学部生数百人にVARK診断を受けさせ、診断結果に沿った勉強法を案内した上で、実際の勉強法と成績を追跡した(Anatomical Sciences Education誌に掲載)。結果、多くの学生はそもそも自分の診断タイプに沿った勉強をしておらず、沿った学生の成績が良いわけでもなかった。論文の題名は「学習スタイルの棺にもう一本の釘を?」。研究者の側では、この時点でほぼ決着した扱いになっている。
それでも9割が信じている
ここまでが検証の歴史である。では現場はどう変わったか。ほとんど変わっていない、というのが調査の示す答えになる。
冒頭のDekkerら(2012年)の調査は、パシュラーらの総検証から4年後に行われたものだ。それでも学習スタイル説への同意は英国の教員で93%に達し、オランダでも9割を超えた。この調査は学習スタイル説を、脳科学の装いをまとった誤解、いわゆる「ニューロミス(神経神話)」の代表例として扱っている。研究の世界の判定と、教室の常識のあいだの断絶は、それほど深い。
断絶は教員だけの問題でもない。ニュートンが2015年にFrontiers in Psychology誌で発表した分析によれば、教育研究のデータベース(ERICとPubMed)に収載された高等教育分野の学習スタイル関連論文のうち、89%が学習スタイルの利用を明示的または暗黙に肯定していた。検証で否定された理論が、学術論文の中でさえ多数派として生き続けている。ニュートンらの2017年の続報では、英国の大学教員の33%が過去1年以内に学習スタイルを実際に使ったと答えている。
なぜこれほどしぶといのか。ナンスキベル、シャー、ゲルマンの3人が2020年にJournal of Educational Psychology誌で発表した研究が、信念の中身を分解している。331人と337人を対象にした2つの調査で、学習スタイルを信じる人は2グループに分かれた。片方は、学習スタイルを生まれつき脳に備わった変えられない性質と捉える「本質主義的」な信奉者で、1つ目の調査では信奉者の約3分の2を占めた。血液型性格診断に近い、アイデンティティとしての信じ方である。もう片方は、経験で変わる緩やかな傾向として捉えるグループだった。前者にとって、タイプは自分が何者かの一部になっている。データを一枚見せられて手放せるようなものではない。
信念の側にも足場はある。好みの実在はマッサとメイヤーの実験が示した通りで、「読むほうが好き」という実感は嘘ではない。嘘ではない実感が、「好みに合わせれば伸びる」という未検証の飛躍を毎日補強する。しかも「生徒それぞれの個性に応じたい」という動機は教育者として誠実そのものだ。誠実な動機と本物の実感に支えられた誤解は、どんな誤解よりも長生きする。
この結果が意味しないこと
ここまでの話を「人による違いなど無い、全員同じに教えればよい」という主張と読まれると、それは違う。研究者が否定したのは個人差の存在ではなく、視覚型・聴覚型というタイプ分けと教材形式を一致させる特定の処方箋である。事前知識、言語理解力、興味の個人差が学習を左右することは、むしろ繰り返し確認されている。ロゴウスキーらの実験でも、成績を予測したのは適性だった。
検証の側の限界も正直に見ておきたい。パシュラーらの基準を満たした実験は今も数えるほどしかなく、71種類の理論のすべてが個別に処刑されたわけではない。悪魔の証明という言葉があるように、「効果がない」ことを完全に証明することは原理的にできない。ただし、ここでの問題は証明の不可能性ではない。何十年も教育現場を動かしてきた理論が、検証可能な形で提示されてから正面の実験を何度受けても一度も勝てていない、という実績の問題である。効果があると主張する側に立証責任がある以上、現時点の判定は動かない。
もうひとつ、認知心理学者のダニエル・ウィリンガムによる整理は実務上の出口として役に立つ。形式は学習者のタイプではなく、内容に合わせればよい。地理を教えるなら誰にとっても地図を見せるのが良く、発音を教えるなら誰にとっても音を聞かせるのが良い。「視覚型の生徒にだけ地図を見せる」必要はないし、「聴覚型の生徒に地図を口頭で説明する」のは全員にとって遠回りである。個別化に使っていた労力は、内容と形式の適合に振り向けるほうが筋が良い。
タイプ診断の代わりに何をするか
冒頭の「耳で覚えるタイプだから録音を聞き直す」に戻ろう。この習慣は捨てるべきなのだろうか。
録音という行為自体は、むしろ守る価値がある。ただしその価値の源泉は、タイプへの適合ではない。聞いた内容を記憶だけに頼らず外部の記録に出しておくこと、つまり後から何度でも参照できる形に変換しておくことにある。そして研究が示した通りタイプと形式の相性は成績を左右しないのだから、記録は聞く・読むのどちらか一方に固定する理由もない。録音した音声が後からテキストでも読める状態になっていれば、通勤中は耳で、確認作業は目で、と場面のほうに合わせて使い分けられる。ウィリンガムの言う「内容と場面に形式を合わせる」を、自分の記録に対して行うわけだ。
AIボイスメモの「メモリス」が役に立つのは、まさにこの変換の部分になる。会議や講義、思いつきをスマホで録音しておくと、録音を終えた後にAIが処理を行い、数分で文字起こしと要約ができあがる。聴覚型か視覚型かという診断に投資する代わりに、あらゆる情報を聞ける形にも読める形にも残しておく。証拠の残っている工夫とは、そういう種類のものである。
学習方法そのものについても、タイプを問わず効果の証拠が積み上がっている方法は既にある。思い出す練習(教材を読み返すのではなく、閉じて内容を思い出してみる)や、学習の間隔を空けて繰り返す分散学習がその代表だ。自分のタイプ探しに使っていた時間の行き先としては、こちらのほうがはるかに分がいい。
「自分は耳で覚えるタイプ」という自己認識は、好みの表明としては本当で、学習戦略としては根拠がない。18年前に決着したこの区別が、いまだに世界中の教室に届いていない。自分の中の「タイプ」の実感がどこから来ているのか、一度だけ疑ってみる価値はある。
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