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2026年09月07日 07:05

メールでIQが10下がる説の出どころ、論文は無かった

執筆: Takumi(Memolith開発者)
メモリスメモリスによる要約
  • 「IQ10低下、大麻の倍」の出どころは2005年のHP広報企画で、被験者8人の未発表実験だった
  • 監修した心理学者Wilson本人が釈明文書を出し、大麻比較の妥当性と数字の独り歩きを否定した
  • 査読研究の側でも、マルチタスクと注意力の関連は追試とメタ分析で効果量d=0.17まで縮んだ

生産性をめぐる記事や書籍で、20年にわたって引用され続けてきた数字がある。

「メールや通知をさばきながら働くと、IQが10ポイント下がる。徹夜明けに相当し、大麻を吸ったときの約2倍の悪影響だ」。

具体的で、比較対象があり、しかも意外性がある。 引用したくなる条件がそろった数字だが、これを裏付ける査読論文は、どの学術誌にも載っていない。 出どころは2005年、Hewlett-Packard(HP)の広報キャンペーンである。 しかも実験を監修した心理学者本人が、後に釈明文書を出してこの数字の独り歩きを否定している。

数字がどう生まれ、どう変質し、監修者の否定にもかかわらずなぜ生き残ったのか。 そして、PR発の数字を取り除いたあとに残る「本物の研究」は何を言っているのか。 その全行程を、実在する文献を突き合わせて追っていく。

2005年、「メールはIQへの脅威」報道

2005年4月、英国の主要メディアが一斉に、ある「研究」を報じた。 見出しの趣旨はどれも似ている。 メールや電話に絶えず気を取られる状態は認知能力を損なう、というものだ。

報道された内容はこうだった。 仕事中にメッセージをさばこうとした人のIQは10ポイント低下した。 これは一晩眠らなかった場合に匹敵し、大麻吸引後に見られる4ポイントの低下の2倍以上にあたる。 あわせて、1,000人規模の意識調査の結果として、回答者の過半数がメールに「即座に」または「できるだけ早く」返信すると答え、2割程度は会議を中断してでも返信すると答えた、という数字も紹介された。

この報道にはインフォマニア(infomania)という言葉が添えられていた。 情報への強迫的な没頭、といった意味の造語で、キャンペーンの看板として使われたものだ。 「IQ10ポイント」「大麻の倍」「インフォマニア」の三点セットは、その後の生産性論やデジタルデトックス本に繰り返し登場することになる。

出どころの解剖、被験者は8人だった

この「研究」の実態は、公表された情報を分解すると二つの別物からできている。

一つめは、約1,100人を対象にしたメール利用習慣の意識調査である。 「即座に返信する」「会議を中断する」といった数字はこちらから来ている。 これはアンケートであって、IQの測定とは何の関係もない。

二つめが、心理学者Glenn Wilson(当時、キングス・カレッジ・ロンドン精神医学研究所)が監修した小規模な実験である。 静かな環境と、電話が鳴りメールが届く環境とで、知能テストの成績を比べるという設計だった。 この実験の被験者は、8人である。

2005年のHP委託調査の内訳。メール習慣のアンケート回答者は約1,100人、IQを測定した実験の被験者は8人だった(Glenn Wilsonの釈明文書に基づく)

そして、この二つを束ねて世に出したのは学術誌ではない。 HPが委託したPR会社Porter Novelliのプレスリリースである。 実験の設計や結果の詳細を記した論文は公表されず、公表の予定もなかった。 つまり「メールでIQが10下がる」という命題は、生まれた瞬間から、査読(他の研究者による掲載前の検証)という関門を一度も通っていない。

Wilsonは後年のインタビューで、この件について問われた際に「ああ、あのいまいましいやつか」という趣旨の反応を示し、依頼側から低予算での実施を求められた経緯を語ったと伝えられている。 学術的な成果を出すための研究ではなく、広報素材を作るための実験だった、ということである。

監修者本人の釈明文書

数字が独り歩きを始めたあと、Wilsonは自身の名義で釈明文書を公開した。 「The Infomania Study」と題されたこの文書は、短いが、報道と実態のずれを一つずつ切り分けている。

第一に、参加人数の混同である。 報道では1,100人調査と8人実験が区別されず、大規模な研究でIQ低下が確認されたかのような印象が広がった。 IQに関わる部分の実データは、8人分しかない。

第二に、大麻との比較である。 これはWilson自身の測定結果ではない。 大麻や睡眠不足がIQに与える影響を調べた、別の研究者による先行研究の数値に、自分の実験結果を当てはめただけのものだ。 Wilsonはこの比較の妥当性そのものを疑わしいとしている。 理由も明快で、通知による低下は一時的な注意散漫(気が散っている間だけ成績が落ちる状態)にほぼ確実にすぎない一方、睡眠不足や薬物の影響はより根本的で、場合によっては持続的でありうるからだ。 一時的な状態と持続的な損傷を同じ「IQ低下」という物差しに載せた時点で、比較は成立していない。

第三に、公表形態である。 この結果が載った媒体はプレスリリースだけであり、査読論文は存在しない。 Wilsonの文書は、いわば監修者本人による「この数字を学術的事実として引用しないでほしい」という宣言だった。

それでも数字は死ななかった。 釈明文書より、「大麻の倍」というフレーズのほうがはるかに速く遠くまで運ばれたからである。

では、本物の研究は何を言っているのか

ここで話を終えると、「マルチタスクの害はぜんぶデマ」という逆張りに着地してしまう。 それは正確ではない。 メールや通知をさばきながら働くことと注意力の関係は、PR会社とは無関係に、査読つきの学術研究として真剣に調べられてきた。 その代表格が、Ophir、Nass、Wagnerによる2009年の論文「Cognitive control in media multitaskers」(米国科学アカデミー紀要、PNAS)である。

この研究は、質問紙で日常的なメディアマルチタスク量(テレビを見ながらメールを書く、といった複数メディアの同時利用の度合い)を測り、その値が特に高い群と特に低い群を抽出して、実験室の課題成績を比較した。 結果は印象的だった。 マルチタスク常用群は、無関係な情報を無視するフィルタリング課題で成績が悪く、記憶課題で誤反応が多く、課題の切り替えも遅かった。 「ながら作業をよくする人ほど、皮肉にも切り替えが下手」という発見は広く報道され、この論文はメディアマルチタスク研究の看板になった。

ただし、規模には注意がいる。 比較された各群の人数は、実験ごとにおおむね15人から22人程度である。 2005年の8人よりはるかにまともだが、それでも小さなサンプルであり、この規模の研究は追試(別の研究者が同じ手続きで結果を確かめ直すこと)で結果が縮むことが珍しくない。

追試とメタ分析で、効果は縮んだ

実際に縮んだ。 WiradhanyとNieuwensteinは2017年、Ophirらの手続きを踏襲した追試を2回行い、さらにメタ分析(複数の研究結果を統計的に統合する手法)を加えた論文を発表した(Attention, Perception, & Psychophysics誌)。

2回の追試では、元論文の主要な効果のうち統計的に有意に再現されたものは一部にとどまり、再現された効果も元の研究より小さかった。 続くメタ分析では、既存の12研究と自分たちの追試2件から、マルチタスク量と注意散漫のしやすさの関連を検定した39件の結果を統合した。 内訳は次の通りである。

WiradhanyとNieuwenstein(2017)のメタ分析に含まれた39件の検定の内訳。マルチタスク常用群が有意に劣ったのは10件、有意差なしが26件、常用群が有意に優れたのが3件

39件のうち、マルチタスク常用群が有意に劣っていたのは10件。 26件は有意差がなく、3件では逆に常用群のほうが優れていた。 全体を統合した効果量(群間の差の大きさを表す標準的な指標)はd=0.17で、慣例上「小さい」とされる0.2にも届かない。 さらに、小規模でセンセーショナルな結果ほど出版されやすいという偏り(小規模研究バイアス)を統計的に補正すると、この関連は有意ですらなくなった。

2021年には、Parryとle Rouxが32研究118件の結果を統合した、より大規模なメタ分析を発表している(Cyberpsychology: Journal of Psychosocial Research on Cyberspace誌)。 結論は、関連はあるがごく小さく、研究間のばらつきが大きい、というものだった。 この論文にはもう一つ示唆的な発見がある。 「自分は気が散りやすい」といった自己申告の指標ではマルチタスク量との関連が比較的はっきり出るのに、実験室の課題成績で測ると関連はほぼ消えるのだ。 ながら作業が多い人は、実際の成績が悪いというより、自分の注意力への自信を失っている、という読み方すらできる。

残る関連も、因果の向きは分からない

もっとも、「関連が小さい」と「何もない」は違う。 Ophir論文の著者の一人でもあるWagnerが、Uncapherとともに2018年にPNAS誌へ寄せた総説では、それまでの証拠を総合すると、マルチタスク常用群は作業記憶や持続的注意など複数の領域でやや低い成績を示す傾向がある、と整理されている。 効果は小さいながら、方向性としては一貫している領域もある、というのが慎重な現状認識だ。

ただし、この総説自体が強調している通り、これらはすべて相関研究である。 マルチタスクが注意力を削ったのか、もともと注意のフィルタリングが苦手な人がマルチタスクに流れやすいのかは、この設計では区別できない。

後者を支持する材料もある。 Sanbonmatsuらが2013年にPLOS ONE誌で発表した研究では、マルチタスクを最も頻繁に行う人ほど、実験室で測ったマルチタスク処理の成績が悪く、しかも自分のマルチタスク能力を過大評価していた。 衝動性が高く、一つの作業への集中を保ちにくい人ほど、ながら作業を選びがちだという関連も示された。 「マルチタスクがIQを下げる」という因果の矢印は、「集中が苦手な人がマルチタスクをする」という逆向きの矢印と、少なくとも同程度にはありうるのである。

PR発の数字が20年生き延びた理由

ここまでを並べると、奇妙な対比が浮かび上がる。

一方に、被験者8人、査読なし、監修者本人が否定した「IQ10ポイント低下、大麻の倍」がある。 他方に、数百人規模の蓄積と複数のメタ分析を経て「関連はごく小さく、因果の向きも不明」へ収束した査読研究群がある。 そして20年間、講演や書籍で引用され続けたのは前者だった。

理由の一つは、数字の設計そのものにある。 「d=0.17で補正後は非有意」は誰の記憶にも残らないが、「大麻の倍」は一度聞いたら忘れない。 プレスリリースは覚えてもらうために書かれ、論文は正確であるために書かれる。 流通力で勝負したら、勝敗は最初から決まっている。

もう一つは、この数字が「みんなが薄々感じていること」を裏書きしてくれたことだ。 通知に追われる働き方への不安は実感として広く共有されており、それに具体的な数値の形を与えてくれる話は、真偽の検証を待たずに受け入れられやすい。 実感に合う数字ほど、出どころを確かめる動機が弱くなる。

だから、この話の教訓は「メールの害はデマだった」ではない。 数字を引用する前に確かめるべき点が、この一件にほぼすべて含まれている、ということだ。 査読誌に載っているか。 サンプルは何人か。 資金の出し手は誰か。 そして、印象的な比較(大麻の倍、徹夜に相当)は同じ研究の中で測定されたものか、それとも別の研究からの借り物か。 「IQ10ポイント」は、この四つの問いのすべてに引っかかる。

まとめ

「メールや通知のマルチタスクでIQが10ポイント低下、大麻の約2倍」という数字は、2005年にHPの広報キャンペーンが生んだもので、実体は被験者8人の未発表実験だった。 監修者のGlenn Wilson本人が釈明文書で、参加人数の混同、大麻比較の妥当性、効果が一時的な注意散漫にすぎないことを明言している。 査読研究の側でも、Ophirらの2009年の発見は追試とメタ分析(Wiradhany & Nieuwenstein 2017、Parry & le Roux 2021)で大きく縮み、残った小さな関連も因果の向きは確定していない。

それでも、通知に中断されている間の作業効率が落ちること自体は、Wilsonの釈明文書ですら否定していない(だからこそ「一時的な注意散漫」なのだ)。 会議や打ち合わせの最中に、聞くことと記録することを並行させる場面は、日常に残る数少ない避けにくいマルチタスクである。 AIボイスメモのメモリスは、録音しておけば録音後にAIが文字起こしと要約を作るので、その場では聞くことに専念するという分業ができる。 「IQが10下がるから」ではなく、単に気が散らないほうが楽だから、という等身大の理由で十分だろう。

数字を疑う習慣は、数字を捨てる習慣ではない。 出どころまで遡れる数字だけを持ち歩く、というだけのことである。

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