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2026年09月02日 07:05

マズローのピラミッドは誰が描いたのか、経営学者の調査

執筆: Takumi(Memolith開発者)
メモリスメモリスによる要約
  • 欲求5段階のピラミッド図はMaslowの1943年原論文にも著書にも無い。1960年頃に経営学教育の側で作られた図解だった
  • 2019年の調査が図の系譜を遡り、1957年の教科書の階段図と1960年の経営誌のピラミッドに起源を特定した
  • 階層仮説は1976年のレビューで支持ごく部分的と判定。ただし欲求の中身の有効性は123カ国調査で部分的に確認された

底辺に生理的欲求、頂点に自己実現。あの5段のピラミッドを、研修資料か教科書か、どこかで一度は見ているはずである。心理学者Abraham Maslowの「欲求5段階説」として、おそらく世界で最も再生産された図だろう。

ところが、この図には奇妙な事実がある。Maslowが1943年に学術誌Psychological Reviewへ発表した原論文「A Theory of Human Motivation」を開いても、ピラミッドはどこにも載っていない。1954年の主著『人間性の心理学(Motivation and Personality)』にも無い。本人は生涯、あの図を描かなかった。

では誰が描いたのか。2019年、経営学者のTodd Bridgman、Stephen Cummings、John Ballardの3人が、この問いそのものを研究課題に据え、学術誌Academy of Management Learning & Educationに調査結果を発表した。教科書と経営文献の系譜を遡った結論を先に言うと、ピラミッドは1960年頃、経営コンサルタントと経営学教育の側で作られた図解である。しかも図が削ぎ落としたのは飾りではなく、「段階は固定的でなく、順序は入れ替わり、複数の欲求が同時に働く」というMaslow本人の留保だった。さらに厄介なことに、階層構造そのものへの実証的な支持は、1976年の文献レビューの時点で「ごく部分的」と判定されている。理論の発表から80年あまり、図の誕生から数えても60年以上、本人の作でない図が本人の理論の顔として流通し続けていることになる。この記事では、その顛末を研究史として追う。

原論文を開くと、そこにピラミッドは無い

Maslow, A. H.(1943)「A Theory of Human Motivation」(Psychological Review, 50, 370-396)は、たしかに5種類の欲求を論じている。生理的欲求、安全の欲求、愛情の欲求、自尊心の欲求、そして自己実現の欲求。低次の欲求がある程度満たされると、より高次の欲求が前景に出てくる、という欲求の階層(hierarchy of needs)の考え方も、この論文が出発点で正しい。

だが論文に図は一枚も無い。それどころか、本文を読み進めると、後世のピラミッドが与える印象を打ち消す記述が次々に出てくる。Maslowは、この階層が「これまでの記述が与えたかもしれない印象ほど固定的ではない」と明記し、逆転の例を列挙した。自尊心が愛情より優先されるように見える人がいること。創造性の強い人では、創造への衝動が他のどの欲求よりも重要になりうること。理想や価値のために、生理的な欠乏すら耐える人がいること。段階を一段ずつ登る単線の物語は、原論文の中で著者自身が先回りして否定している。

誤解のないように書いておくと、Maslowが階層という言葉で主張したのは、欲求のあいだに優先度の傾向があるということである。満たされていない欲求のうち、より根源的なもの(原語ではprepotentな欲求)が行動を組織しやすい、という重みづけの話であって、下の段を満たし切るまで上の段が存在しないという関門の話ではない。実際Maslowは、「ある欲求が満たされると次の欲求が現れる」という自分の言い方が、100%満たされてから次へ進むという誤解を生みかねないと警戒し、こう書いた。社会の標準的な成員は、すべての基本的欲求において部分的に満たされ、同時に部分的に満たされていない、と。そして説明のために、あくまで恣意的な仮の数字と断った上で、平均的な市民の充足度の例を挙げる。生理的欲求85%、安全70%、愛情50%、自尊心40%、自己実現10%。

Maslowが1943年の論文で説明用に挙げた平均的な市民の欲求充足度の仮の数字。生理的欲求85%、安全70%、愛情50%、自尊心40%、自己実現10%と、5つの欲求すべてが同時に部分的に満たされるとした。実測データではない

この例示が意味するのは、下の段をクリアしてから上の段へ進む、という読み方の正反対である。5つの欲求は同時に、それぞれ違う程度で働いている。優先度の重みづけはあるが、関門は無い。ピラミッドという図形が伝える「積み上げ」の直感は、原論文の記述と噛み合っていない。

図の出生を遡った経営学者たち

原典に無い図が、どこで生まれてどう広まったのか。Bridgman、Cummings、Ballard(2019)「Who Built Maslow's Pyramid?」(Academy of Management Learning & Education, 18(1), 81-98)は、この問いに文献の系譜調査で答えた。心理学の側ではなく、経営学の教科書と実務家向け文献を年代順に遡っていく手法である。

たどり着いた先は、心理学の実験室ではなかった。まず1957年、経営学者Keith Davisの経営学教科書に、欲求の階層を直角三角形の階段として描いた図が現れる。ただしこの階段図は広まらなかった。転機は1960年である。コンサルティング心理学者のCharles McDermidが、経営誌Business Horizonsに寄せた論文「How Money Motivates Men」の中で、5段の欲求を三角形に積んだ図を掲載した。Bridgmanらの調査が特定できた範囲で、これが公刊された「マズローのピラミッド」の最も早い例である。報酬設計を経営者に説くための記事だった。つまりあの図は、動機づけ理論の研究成果としてではなく、理論を経営者に売り込むための視覚的なパッケージとして生まれた。

その後ピラミッドは、経営学と組織行動論の教科書を経由して増殖していく。教科書は先行する教科書を参照して書かれるから、一度図が定着すると、原論文まで戻って確認する動機は誰にも無くなる。そしてこの複製の過程で、原論文にあった留保、つまり順序の逆転、複数欲求の同時作動、文化による違いの可能性は、図に描けないという理由で削ぎ落とされた。図解は要約ではない。何を残すかの選択であり、ピラミッドの場合、選択したのはMaslowではなく経営学教育の側だった。

Bridgmanらはもう一つ、皮肉な指摘をしている。ピラミッドが経営教育に定着した理由は、それが管理の道具として都合がよかったからだという分析である。従業員の欲求を5段の在庫として扱い、賃金で下段を、表彰で中段を満たせば動機づけを管理できる、という読み方をピラミッドは誘う。人間の成長の可能性に向かっていたMaslowの関心は、この読み替えの中で従業員管理のチェックリストに変換された。なお、Maslow本人の思考は晩年さらに先へ進んでおり、自己実現のさらに上に自己超越(自分を超えた目的への献身)を置く議論を展開していたことが、心理学者Mark Koltko-Riveraによる2006年のレビュー(Review of General Psychology誌)で整理されている。5段で完結する図は、この点でも本人の理論の途中経過を凍結したものにすぎない。

中身のほうは、1976年に判定が出ていた

図の出生とは別に、理論の中身は実証に耐えたのかという問題がある。ここには早くから答えが出ていた。経営学者のMahmoud WahbaとLawrence Bridwellが1976年、学術誌Organizational Behavior and Human Performance(15(2), 212-240)に発表したレビュー「Maslow Reconsidered」は、それまでに蓄積された検証研究を体系的に集計している。

検証の対象になったのは、理論の2つの中核命題である。第一に、満たされていない欲求ほど行動を支配するという命題(剥奪と支配の命題)。第二に、下位の欲求が満たされると、その一段上の欲求が活性化するという命題(充足と活性化の命題)。ピラミッドを一段ずつ登るという通俗的な理解は、この第二の命題に対応する。

集計結果は厳しかった。欲求が理論どおり5つの層に分かれるかを調べた因子分析研究10件と順位づけ研究3件は、階層の存在をごく部分的にしか支持しなかった。剥奪と支配の命題については、多数の横断研究(ある一時点で多くの人を比較する研究)を見渡しても、自己実現に関する部分を除いて明確な支持が無い。そして肝心の充足と活性化の命題は、縦断研究(同じ人を長期間追跡する研究)からの支持がゼロだった。横断研究に見えるわずかな支持も、欲求の測定方法が研究ごとにばらばらであるため疑わしい、と2人は判定している。

縦断研究の中身も具体的に見ておく価値がある。心理学者のDouglas HallとKhalil Nougaimが1968年に同じ誌上で発表した研究は、大手企業に入社した若手管理職49人を5年間追跡した。階層説が正しければ、キャリアが進んで下位の欲求が満たされるにつれ、下位欲求の重要度は下がり、上位欲求の重要度が上がるはずである。実際に観察されたのは、昇進とともにすべての欲求の切実さが上がっていくという、階段とは似ても似つかないパターンだった。

WahbaとBridwellのレビューで目を引くのは、個々の否定的な結果よりも、2人が繰り返し指摘する構図のほうである。証拠がほとんど無いにもかかわらず、この理論は疑われることなく受け入れられている、という指摘だ。1976年の時点でこう書かれた理論が、その後も半世紀にわたり教科書と研修資料に描かれ続けたことになる。

検証で否定された理論が、なぜ図として生き延びたのか

ここで素朴な疑問が湧く。支持がごく部分的と専門誌で判定された理論が、なぜその後50年も再生産され続けたのか。

Bridgmanらの答えの一つは、すでに見たとおり、ピラミッドが経営教育の需要に合っていたことである。授業で教えやすく、試験に出しやすく、スライド1枚に収まり、一度見たら忘れない。教える側にとっての利便性は、実証的な裏付けとは独立に存在する。そして図の単純さそのものが、留保や反証を寄せ付けない。「順序は入れ替わることもある」という注記は、5段の積み上げ図の視覚的な説得力の前ではほとんど無力である。

もう一つ、理論の側にも生き延びる理由があった。全部が間違いだったわけではないのである。心理学者のLouis TayとEd Dienerが2011年、学術誌Journal of Personality and Social Psychologyに発表した研究は、世論調査Gallup World Pollの123カ国のデータを使って、Maslowの挙げた欲求と幸福感の関係を検証した。結果は二面的だった。基本的な生活の欲求、安全、社会的つながり、尊重、自律といった欲求の充足は、文化圏を問わず幸福感と結びついていた。欲求のリストそのものは、世界規模のデータで裏付けられたことになる。一方で、階層の順序は必要条件として機能していなかった。基本的欲求が満たされていない人でも、良い人間関係や尊重の充足を報告でき、それが幸福感に寄与していた。欲求は積み上げ式の関門ではなく、それぞれ独立に効く、という結果である。

TayとDienerの分析には、階層の代わりに見えてきた構造も記録されている。幸福感を一枚岩として扱わず、人生全体への評価、日々のポジティブな感情、日々のネガティブな感情の3つに分けて欲求との対応を調べると、それぞれ別の欲求と強く結びついていた。人生の評価を押し上げるのは食料や住居といった基本的欲求の充足であり、ポジティブな感情を支えるのは社会的つながりと尊重、ネガティブな感情を押し上げるのは基本的欲求と尊重と自律の欠乏だった。欲求を1本の階段に並べる代わりに、どの欲求がどの種類の幸福に効くかという対応表を作る。検証に生き残ったのは、そういう形の理論だった。

理論の骨組みを作り直す試みも現れた。進化心理学者のDouglas Kenrickらが2010年、学術誌Perspectives on Psychological Scienceに発表した「Renovating the Pyramid of Needs」は、動機の階層という発想自体は進化的な基盤の上に保持できると論じつつ、大幅な改築を提案した。欲求は上書きされて消えるのではなく重なり合って併存すること、そして頂点には自己実現ではなく、配偶相手の獲得と維持、子育てといった繁殖関連の動機が置かれることが、彼らの改訂版の特徴である。自己実現は独立の欲求としては図から消えた。改築案の当否はここでは問わない。理論を真剣に引き継ごうとした研究者たちでさえ、あの5段のピラミッドの形は維持できなかった。この事実だけで、元の図の説明力への評価としては十分だろう。

整理するとこうなる。欲求の種類のリストは、部分的に生き残った。優先度に緩やかな傾向があるという読み方も、擁護の余地がある。生き残らなかったのは、下の段を満たしてから次へ進むという階段の構造、まさにピラミッドという図形が全力で表現しているその部分である。

図は理論より速く旅をする

この顛末には、Maslow個人の名誉回復を超える教訓がある。図解は理論の乗り物として優秀すぎる、ということだ。ピラミッドは原論文を読んだことのない何億人にも欲求5段階説を届けたが、届けたのは著者が書いた理論ではなく、1960年に報酬設計の記事のために単純化された派生物だった。そして派生物のほうが原典より有名になると、原典を読んだ人が「そんなことは書かれていない」と指摘しても、もはや訂正が追いつかない。

似た構図は他の有名図にもある。出典を遡ると原典にたどり着かない図やグラフは、教材や研修資料の世界に一定数流通している。見分ける手がかりは、この記事で追った調査の手法そのものにある。その図は誰が、いつ、何のために描いたのか。原典とされる文献に、本当にその図は載っているのか。Bridgmanらの調査が示したのは、この確認作業が専門家でなくても原理的には可能で、しかも図の誕生から半世紀以上、ほとんど誰もやらなかったという事実である。彼らの論文の表題が「経営教育への含意」を掲げているのは、この意味で読める。誰が何のために単純化したのかという図の出生の物語は、この理論に限らず、教科書の図を鵜呑みにしないための教材になる。

次に研修資料であのピラミッドを見かけたら、思い出す材料は揃っている。Maslowはあの図を描いていない。描いたのは1960年の経営誌の記事であり、階段状に登るという中核命題は1976年に支持なしと判定され、それでも欲求のリスト自体は2011年の123カ国調査で部分的に生き返った。1枚の図の裏に、これだけの研究史が畳まれている。図を疑うことは、理論を捨てることではない。図が削ぎ落としたものを、原典まで戻って拾い直すことである。

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